企業の資産や負債などの財務状況や売上?利益などの経営成果を財務諸表に表現するプロセスが企業会計だ。企業会計を研究する李先生は、財務諸表は企業の成績表であり、その基となる会計システムは数字による世界共通の言語だという。財務諸表を見れば、企業が将来起こりうるリスクにいかに備えているかも読み取れる。リスクヘッジとは何か、私たちの生活を会計学で見ると何が見えてくるのか。先生の案内で少しだけ覗いてみよう。
リスクは正確に予測できなくても
それを見込んで備えることはできる
私は会計学、特に「ヘッジ会計」について研究しています。まずヘッジという言葉の説明をしておきましょう。ヘッジには、垣根や境界線といった意味があり、?リスクヘッジ?という言葉で耳にすることが多いかもしれません。リスクヘッジとは、直訳すれば危険を防ぐための垣根や境界のこと。日本では?危険回避?と訳しますが、単に危険から「逃げる」のではなく、垣根などを作って外から侵入されるリスクを「防御する」、つまりリスクに向き合ったうえで防御する、というイメージの言葉です。防御の方法は一つとは限りません。壁を作って、その上に鋭利な突起物を埋め込むという「組合せ」によって、ヘッジの効果は高まります。
複雑化した経済社会において企業はさまざまなリスクに直面しています。たとえば、戦争で株価が変動したり石油の価格が上がったりすることも大きなリスクです。こうした将来のリスクは、いつ起こるか、どれくらいの規模なのか、正確に予測することはできません。でも、それを見込んで対策を講じ、リスクを小さくすることはできます。それがリスクヘッジです。
別の例では、私たちがホテルを予約する時、当日でもキャンセルできる部屋は価格が高めの設定になりますね。ホテル側がキャンセルされるリスクを見込んでいるからです。逆にキャンセルが3日前までしかできない部屋なら少し安いかもしれません。ホテルの部屋の価格も将来の客の動きを見込んでリスクヘッジしているのです。
同様に、戦争が起きても石油を優先的に確保できる条件で購入契約をすれば価格は高くなるし、有事の時は確保できなくてよいなら安い価格で取引できるでしょう。こうした考え方から生まれたのが?デリバティブ(金融派生商品)?です。石油や小麦などの商品のほか、金利や外国為替、株や債券などの価格変動リスクに備えるために登場したもので、将来の売買についてあらかじめ現時点で約束をする先物取引や、将来売買する権利をあらかじめ売買するオプション取引など、多様な金融商品があります。
このようなデリバティブはいろいろな使い方ができ、価格変動などのリスクを低減させることができますが、使い方を誤ると大きな損失をもたらす危険性もはらんでいます。本業が好調で順調に利益を出していても、デリバティブ取引で失敗して巨額の損失を被ると、最悪の場合、倒産ということにもなりかねません。このような事態を避けるため、企業はさまざまな手法を組み合わせてリスクヘッジしています。こうした企業が行うリスクヘッジを正しく評価し、財務諸表に反映させる会計手法が「ヘッジ会計」なのです。
日本製のカメラにも通じる
会計学の魅力
私は子どものころから機械いじりが大好きで、カメラのような精密機械を分解して遊んでいました(元に戻せないことも多かったのですが...)。それが高じて大学は工学部に進み、在学中にインターンシップ制度を利用して米国系企業で働き、機械装置の製造などに関わりました。その後、日本の製品や文化が好きだったので日系企業に就職したのですが、働くうちに工業製品は生産管理が大事だということ、さらに米国と日本の生産管理が大きく違うことに気がつきました。欧米企業は品質のバラツキには比較的寛容で、適正基準からプラスマイナス20%くらいは許されます。でも日本はとても厳しくて、プラスマイナス5%くらいしか認めない。これが日本の技術力の高さに繋がっているのです。
そこで生産管理の理論を学ぼうと、日本の大学院に留学しました。しかし、いくら理想の生産を追求しても、それを可能にするには経済資源が不可欠です。企業活動を俯瞰する財務の重要性に気づき、財務会計の理論にいままで経験したことのない広い魅力的な世界を感じました。一つの国の中に留まるのではなく、より広い世界を見てみたいという私の思いと重なったのかもしれません。そのような経緯で、改めて別の大学院で会計学の勉強を始めたのです。
会計とは企業の財務情報を評価し、財務諸表に集計?記録するプロセスのことです。株主をはじめとした外部関係者に情報を伝えるには、伝える側と受け取る側に共通の言語が必要です。会計学は「財務情報を伝えるための共通言語」とも言えるでしょう。
会計学の言語には二つの大きな特徴があります。一つ目は、情報の主要部分が数字で、その記録の基となる複式簿記も世界共通であるということ。そして二つ目は、数字という情報は定量的で曖昧さがないということです。
会計システムは、数字によって緻密に組み立てられた美しい工業製品のようなもの。私が素晴らしいと思った日本製のカメラにも通じる魅力があります。
企業の成績表である財務諸表も
評価の手法によって点数が変わる
企業のあらゆる財務情報は、数値化して複式簿記という共通ルールで記録?集計されています。しかし、デリバティブのようなリスクヘッジに関する数値の出し方は研究者によっていろいろな議論があり、企業がどの手法を使うかはさまざまな選択肢があります。
たとえば、学生の学習成果を客観的に評価するために成績表をつけますね。評価項目には経済学ならマクロ経済、ミクロ経済などいろいろな科目があるでしょう。財務諸表はまさに企業の成績表で、リスクヘッジはその科目の一つです。そして、1人の学生の評価がA先生とB先生で異なるように、リスクヘッジを評価する場合にもいろいろな計算方法があるのです。そのため、A社とB社が同じ手法で石油価格の変動をヘッジしたとしても、A社はXモデル、B社はYモデルを使って評価した場合、数値は同じにはなりません。
各企業はリスクヘッジに関わる数字をどんな方法で評価すべきか、そのメリット、デメリットを踏まえて最適な方法を選択するのです。
会計学的思考を
日常生活に応用してみると
会計学の考え方は、日々のさまざまな場面を合理的に捉えることにも役立ちます。
たとえば、10万円のスマートフォンを買ったら、普通は10万円を使ったと考えますが、経済学的には、10万円の投資でいくらの効用(満足)を得ることができるかと考えます。でも、スマートフォンの効用や満足度の測定は簡単ではありません。カメラ機能をフル活用する人とカメラをあまり使わない人とでは、同じスマートフォンであっても満足度は異なります。
会計学では、このスマートフォンが何年使えるかを考えます。4年使えるなら1年あたりの費用は10万円÷4年=2万5000円、残り7万5000円は資産とします。そして、このスマートフォンで撮影した動画で1年間に4万円の収益を得たとすれば、その収益から費用の2万5000円を引いて1万5000円の利益を得られたと考えるのです。スマートフォンを買うことで、どれだけの利益や損失が得られるのか、客観的に把握することができるというわけです。もちろん、生活のすべてにこの考え方が適用できるわけではありません。愛情や信頼といった人間関係には会計学的思考はあまり馴染まないかもしれませんね(笑)。
リスクという捉え方も、私たちの暮らしと無関係ではありません。リスクを取るというと、起業や投資といったものを思い描きがちです。しかし、資格取得や外国語の修得も、十分な成果が得られなければ投資した時間とお金を無駄にするリスクがあります。裏を返せば、リスクを取るということはチャレンジでもあるのです。
大学で高等教育を受けることも大きなチャレンジです。受験勉強を頑張り、少なくない学費を払います。でも、大学に行かずに働いて得られたはずの収入を考えれば、大学で学ぶということは、トータルで1500万円近くの投資リスクを負っています。一方、進学によるリターンは非常に大きいし、大学で得られるものは学びだけではないでしょう。そう考えると、大学の4年間で何を身につけるかがいかに重要か、改めて考えさせられるのではないでしょうか。
リスクを理解し、
正しく評価することが大事
あらゆるものがデジタル化される時代となり、暗号資産のようなバーチャルな世界や電子取引で使われる通貨も登場しています。数学者や金融工学者が知恵を絞り、リスクをゼロに近づける新たなデリバティブ商品やヘッジ取引を考案しています。しかし、技術革新で「ぶつからない車」が開発されても移動のリスクがゼロにはならないように、金融取引においてリターンを得るためのリスクがゼロになることは理論的にありえません。それよりも大事なことは、どのようなヘッジ手法であっても、リスクを正確に評価し、それを財務諸表に反映する最適な会計手法を確立することだと思うのです。
会計学は難しいと思われがちですが、この世界は微分も積分の知識もほとんどの場面で不要。足し算引き算掛け算割り算ができれば理解できる、とてもコストパフォーマンスのいい世界共通の言語です。みなさんも、自己投資や金融商品といったリスクヘッジへの理解を個人レベルでも深めていくことが、より重要になってくるのではないでしょうか。
- 李焱准教授
- 大学卒業後、日系企業に就職。日本の生産管理に興味を持ち2007年に来日し、大学院で経営工学の理論を学ぶ。その後、企業全体の経済行動を俯瞰し評価する会計学に興味を持ち、10年横浜国立大学大学院国際社会科学研究科に進学し、会計学を専門に学ぶ。15年博士課程修了。博士(経営学)。南山大学を経て20年駒澤大学経済学部商学科講師。21年より現職。現在は会計学のなかでもヘッジ会計をテーマに研究を続ける。