2024年水害伝承碑?用水建設顕彰碑調査
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懸樋改修碑記(埼玉県蓮田市) 埼玉県蓮田市と上尾市にかかる瓦葺掛樋跡が明治43年の大水害で壊れたものを修復した大正5年に建立された「懸樋改修碑記」について現地調査をした。まず瓦葺掛樋とは、見沼代用水と綾瀬川が立体的に交差できるようにするために作成されたものである。最初は木製であったが明治41年に鉄製へと改造され、その跡が現在も現存している。その中で、明治43年に大水害が関東地方で発生し、荒川?利根川の堤防が決壊し、埼玉県などで大洪水が発生し、399人の死者?行方不明者を出した大災害である。その際に瓦葺掛樋跡も破損し、大正5年に修復された際に建立した用水建設顕彰碑である。(けんちゃむ) ?瓦葺掛樋跡 in 埼玉県蓮田市?上尾市 - 歩?探?見?感 ?瓦葺掛樋跡 - 上尾市Webサイト ?明治43年の大水害 - Wikipedia かつては、懸け樋(掛渡井?かけとい)だったのですが、1961年に伏せ越し(川の下をくぐる)になったようですね。色々モニュメントがあって、興味深い場所です。ストリートヴュー (改修碑遠望、史跡公園の懸け樋説明) 地理院地図 |
キティ台風 中沢大風水害記念碑 (茨城県桜川市) 茨城県桜川市大曽根にある水害災害伝承碑である。この水害災害伝承碑は1949年に関東地方を襲ったキティ台風の物である。キティ台風とは、前々年カスリーン台風や前年のアイオン台風によって大きな被害を受けた関東地方を襲った台風であり死者行方不明者160人を出した。この桜川市大曽根では、写真に写っている中沢川が氾濫し濁流が大曽根地区を襲った。ただの用水路に見えるが、ここにかかっていた全ての橋を押し流してしまい、道と川の境目がわからなくなるほどになってしまったという。現在ではしっかりと川が整備されており、そのような危機が怒る可能性は低くなっていると思われるがゼロでは無いのは確かであるため、しっかりと刻まれた先人達からの記録を生かすべきである。 (nettu) |
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大曽根集落は、加波山北西麓の山麓堆積地形の末端に形成された集落のよう(地理院地図)。湧き水が豊富だったのかもしれませんね。ここからは想像です。中沢川は上流の集水域がそれほど広くはないので、大雨によって斜面崩壊が発生して土砂ダムができ、降り続く大雨により、土砂ダムが決壊して土石流が流れ下ったのかもしれません。大曽根集落の上部は、土石流警戒区域となっています(重ねるハザードマップ3D)。 |
16点(9人) |
二ヶ領用水久地円筒分水(川崎市高津区) これは神奈川県川崎市高津区にある、二ヶ領用水久地円筒分水というものである。 二ヶ領用水(写真)は、川崎市のほぼ全域を流れる人工用水であり、慶長2(1597)年に小泉次大夫が完成させた。久地で4本の堀に分水されていたが、流量や水位の変化の影響で、正確な分水は難しかった。また、流域の水田の拡大とともに水不足が深刻となり、用水をめぐる水騒動が頻発するようになった。 そこで昭和16(1941)年、平賀栄治によって直径16mの円筒分水が造られた。平賀は、平瀬川が多摩川へ流れるように流路を変更し、平瀬川と二ヶ領用水の交差地点で、二ヶ領用水を平瀬川の下に通した。それがサイフォンの原理によって再び噴き上がることを利用したものが円筒分水である。円周をそれぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さで仕切ることにより、一定の比率で分水できるようになった。(SH) 説明板写真こちら 溝の口駅北口?円筒広場(キラリデッキプレート写真、イルミネーション写真) ※SH撮影 参考資料:川崎市教育委員会「二ヶ領円筒分水」 ちなみに、群馬県高崎市にも「長野堰円筒分水」があります。二ヶ領用水は、久地円筒分水の少し上流側で、平瀬川を「伏せ越し」で交差しています。二ヶ領用水は多摩川に堰を造り、宿河原から取水しています。その宿河原堰の狛江側でかつて氾濫が発生しました。 地理院地図 |
多摩川決壊の碑(東京都狛江市) 写真は和泉多摩川駅近くにある多摩川決壊の碑である。この地は1974年8月31日に接近した台風により小堤防が決壊し、水害に見舞われた。この水害時は全国にリアルタイムで報道がされるほど被害が大きかったという。二ヶ領宿河原堰が影響で迂回流という流れが発生したのが原因とされており、災害の直後に堰を爆破する事で流れを変えた。この災害は流された住宅の住人から裁判を起こされており、結果国が敗訴し損害賠償を行い「人災」であると決定づけられた。(りゅうた) 川に家が流されていく様子をテレビで見て衝撃を受けたのを覚えています(NHKアーカイブス)。多摩川左岸は旧河道であり(地理院地図)、用水の取水のために、江戸時代に堰が作られたので、水害の危険が想定される地域であったようです。 |
多摩川決壊の碑 (東京都狛江市) 小田急線の和泉多摩川駅から徒歩約5分に建てられている多摩川決壊の碑に行ってきた。(写真:多摩川決壊の碑)この災害伝承碑は、1974年8月31日深夜~9月1日夕方にかけて発生した台風16号の影響で、多摩川堤防が決壊した。この決壊は二ヶ領宿河原左岸の激しい迂回流によるものであったと、当時設置された多摩川災害調査技術委員会から発表された。主な被害として、本堤防が約260mにわたって崩壊し、周辺の猪方地区の家屋19棟が流出してしまった。現代と違い、メディアが発達していなかったが都内での災害ということもあり、リアルタイムで被害状況が報道されていた。そのため、全国的に注目されるような災害であったという。 そして、1998年に従来の位置より40m下流に洪水を安全に流し、水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が築かれるとともに、水害の恐ろしさを後世に伝えるためにせっちされたのがこの多摩川決壊の碑である。(いっしー) |
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大雨により多摩川の増水が想定された場合は、一時的に撤去されるようです(2019年履修しん撮影)。狛江市職員6人で運んでいたようですが、あまりに重たいので、2014年に軽いステンレス製になったようです。2023年の伝承碑はこちら(2023年履修あおきくん撮影)。Google衛星写真(狛江側に多摩川決壊の碑、川崎側に二ヶ領せせらぎ館があります。対岸(川崎側)の桜がいい。 |
坂川治水顕彰碑 (千葉県松戸市) 坂川治水顕彰碑は、千葉県松戸市樋野口にある。坂川の毎年の水害が解消されたことを記念して建てられた。写真奥にみえる縦長の碑は、大正天皇が皇太子であった頃に、見学されたことを記念しているためか、坂川治水顕彰碑より、大きく、説明文がついていた。ここで、説明文を参考にし、説明していこうと思う。ポンプ式排水機場ができた年は、明治42(1909)年である。坂川の治水工事は、江戸時代後期から始まっている。江戸時代後期の文化から天保年間にかけて、流山市鰭ヶ崎の名手渡辺充房ら親子3代の苦難と長い年月により、整備された。しかし、明治の中頃から、雨が数日間降り続く、長雨があるたびに20あまりの村々が水浸しとなっていた。明治39年吉ヶ崎に排水機が設置されなかったが、あまり効果が得られなかった。そこで改めて、明治42(1909)年に排水機場を設けて、水害問題が解消した。(神出鬼没) |
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大雨で江戸川が増水すると、バックウォ-タ-現象(もしくは逆流)により度々氾濫を起こし「逆川」が名前の由来との説があります。1970年代に流域の宅地化が進んだことで、記念碑ができてからも氾濫は起こっています。1981年の台風では、教員の友人宅(流山市鰭ヶ崎)が床下浸水して、池の鯉が逃げてしまいました。写真は排水機場建物を背景に、説明石板側から撮影すればよかったと思います。 地理院地図 |
霞川水害慰霊碑 (埼玉県入間市) 埼玉県入間市鍵山にある、洪水の伝承碑である。近くの霞川が氾濫した際の伝承碑だそうだ。埼玉県の資料によると、昭和20年(1945)6月6日夜半の大雷雨で、霞川沿岸は氾濫し、一瞬で 堤防が約36mの長さで決壊した。被害は家屋流失2戸、床上浸水20 数戸、床下浸水100戸余りに及び、流失家屋から2名の母子の犠牲 者を出した。当時の堤防決壊箇所に、慰霊碑と霞川改修の記念碑が 建てられた。とのこと。隣には画像1の亡くなった母子のお墓が建っていた。川の画像が画像2で。堤防は人二人分くらい3mくらいの高さであった。改修工事を行った後の川なので何とも言えないが、36m氾濫は想像も出来ない、現在もその規模が来たらかなりの被害が予想される。(MM) 参考資料: (資料編Ⅱ-2-1-1) 自然災害伝承碑一覧 57 - 埼玉県 11月10日閲覧 |
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霞川が入間台地から入間川低地に流れ出て、右に屈曲する場所ですね(地理院地図)。川を意識した写真になれば良かったかも(ストリートヴュー)。霞川は2016年に写真の記念碑の1.4km上流で氾濫しています(霞川右岸の河岸侵食、住宅地への泥水侵入)。 |
瓦曽根溜井 防水記念碑 (埼玉県越谷市) この防水記念碑は、地域住民とほかの地域から駆けつけた人々が協力して越水を防いだことによって、被害を抑えることができたことを記念して作られた碑である。 1890(明治23)年8月下旬、上旬からの多雨と前日の悪天により、埼玉県羽生付近で利根川の堤防が決壊した。決壊によって流れ出た水は、川や水路を伝って決壊地点から40㎞下流に位置する越谷にも届いた。低地が広がる越谷市域では大洪水に見舞われたほか、元荒川沿いにつくられた瓦曽根溜井でも水位が上昇し、越水のおそれがあった。しかし、地域住民と溜井の下流にすむ東京の人々が昼夜を問わず土俵を積んだことで、越水を防ぐことに成功した。 (T.T.) (写真)しらこばと橋より |
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水害を「防いだ」ことを記念して建てられたものなのですね。その点では珍しいのかも。おそらく「瓦曽根」の「瓦」は「河原」由来でしょうね。瓦曽根村は、日光街道を下ると越谷宿の入口だったのですね。(歴史的農業閲覧システム)(地理院地図) |
12点(7人) | |
室戸台風伝承碑 (岡山市北区) 6月の上旬に地理学科の田中靖先生のゼミで広島県を巡検した際の帰りに、個人的な興味で岡山県の自然災害伝承碑を巡りました。中国地方の大都市と言えば広島でしょうが,中国と四国を結んでいるのは岡山でありますし,山陰と山陽を結ぶ幹線も通っています。そのような岡山市を,昭和9年(1934年)の9月に室戸台風が襲いました。今回巡った自然災害伝承碑の面白いところは,岡山城を背後に納めた石碑以外は、その地点の浸水深さを示しており、設置主体も異なることです。地銀や,学校法人など行政とは異なる組織が設置しています。GISの技能があれば,自然災害伝承碑の示している浸水深で簡易的な浸水実績図を作成することが可能であると思われます。岡山市内にコンパクトに分布しており,主に徒歩で,半日程度で回ることができました。市電を駆使すればより容易にめぐっていけると思われます。 (↙下に続く) |
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今日においては、護岸や上流でのダム建設などの治水により今の岡山市内は守られています。しかしながら,現地の伝承碑を前に自分の体と比べ,どれほどまでの浸水深があったかを比較することができます。過去の災害を身近に感じることができ、これが自然災害伝承碑のあるべき姿の一つだと感じました。西日本は,地質的に花崗岩質な地域が多く、降水量も多いことから土砂災害に見舞われることが多です。今後も,自然災害伝承碑が整備され、地域防災や防災教育の一助となることを考えていきたい。 (たちばな) 岡山城周辺の災害伝承碑など(たちばな撮影) KMLファイル NTTクレド岡山 天満屋岡山本店入口 中国銀行前 岡山城石垣標識 就実学園 写真の撮り方がうまい!野帳を置くところが地理学徒風ですね。周辺も探索している点もすばらしい。地理の教科書では「瀬戸内式気候は雨が少ない」と教わり、溜池なども多いけれど、水害が無縁ではないことを意識する必要がありますね。 (全国Q地図?今昔マップ) |
洪水水位標 (富山県射水市) 写真は,富山県射水市越中大門駅南にある水害伝承碑である。この水害伝承碑は,昭和9年7月に発生した,庄川の洪水についての伝承碑であり,その被害の大きさは,射水郡の大半が浸水し,死者は20人,負傷者240人,流失家屋94棟,民家破損5,418棟,浸水家屋4,009棟,田3,986ha,畑182haが冠水した。原因として考えられることは,7月10日夜半よりの降雨は,庄川上流岐阜県山岳地帯において未曽有の豪雨となり,11日には庄川の最高水位13.10m,最大流量3,361m^3/sを記録し、浅井村(現射水市)にて堤防決壊し,ここまでの被害を出した。被害に関しては,北陸本線も被害にあい,交通や運輸において多大な損失があったと考えられる。 今の庄川の流路と決壊した場所を地理院地図で確認すると,流路の変化はさほど見られず,決壊した場所や被害にあった場所は,水田や住宅が広がっていることが見て取ることができた。住宅が立地しているということは,人口増加による住む場所の増加によるものだと考えられ,根拠としては色別標高図で確認しても,標高的に高くないし,自然堤防上でもないことから考えられる。この水害伝承碑が住宅,駅の近くにあるということは,水害と隣り合わせであることを忘れずに過ごしたい。(OS) |
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庄川右岸に決壊地点の石碑と6つの洪水水位標があるようです。なお、水位標が出来たのは30年前のようですね。決壊地点の上流部には霞堤があったり、さらに上流をみると、散村だったりして、昔の地図を眺めてみると様々な情報が読み取れますね。庄川には高い堤防があるようですが、支流和田川の堤防は低いようです。(重ねるハザードマップ) |
11点(7人) | |
洪水の碑 (茨城県行方市) 水害伝承碑として選んだ写真は、茨城県行方市霞ケ浦大橋付近にある「洪水之碑」である。霞ケ浦は1938年6月から7月にかけて台風の影響を受けた前線による大雨が原因で水位が上昇して洪水が発生した。この災害は「内水型洪水」と呼ばれるタイプで、流域で降った雨が霞ケ浦から流出しにくいことが洪水に繋がった。被害は最大約Y.P3mにまで湖水位が上昇して、浸水面積は約3万haであった。死者45人、床上?床下浸水81、739戸で、冠水被害は数十日にも及んだ。 現場に足を運んで感じたことは、この碑を見つけるのが大変なことである。地理院地図の自然災害伝承碑に記載はされているが、実際は写真からもわかるように草や木々に覆われている。そのためあまり管理されていないような印象を持った。水害伝承碑は過去の水害を後世に伝えていくものなので、管理をして水害の認知を高めていくべきだと考えた。 (田沢) |
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湖岸道路沿いに説明板があるようでした(ストリートヴュ-)。湖があふれる時の水位の上昇は急ではないものの、それでも犠牲者が出ているのは、湖岸低地が広くて逃げられなかったのかもしれません。虹の塔からの写真。20年以上前に霞ヶ浦大橋を渡った記憶がありますが、有料だった気がします。(地理院地図) |
決潰口跡碑 (埼玉県加須市) これは埼玉県加須市のカスリーン公園で撮影したカスリーン台風による堤防決壊跡の碑だ。カスリーン台風は1947年9月に日本に接近し関東地方や東北地方に甚大な被害をもたらした台風だ。死者?行方不明者合わせて約2000人にもなり、利根川と荒川で複数個所の堤防が決壊したため特に埼玉県と東京都で大洪水が起こり甚大な被害がもたらされた。写真の場所は9月16日の午前0時20分ごろに350mにわたり堤防が決壊をし大洪水の発端となった。この場所は江戸時代に人口的に開削された直線河道で、明治43年の大水害の際には被害はなく、浸水などのリスクは低いと考えられ比較的楽観視されていた場所だった。しかし当時とは状況が異なっており、実際は利根川の水はすべてここに集中することになっており渡良瀬川との合流点や下流にある鉄橋の影響で水位が上がるなど増水時には水の流れが悪くなるといった構造的な問題を抱えていた。 (よしけん) |
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石碑の裏を読んだかな?「戦争の噪音にまぎれて治水を怠ったから」「この国土に住む限り治水を疎かにしてはならない」とあります。カスリーン公園には、「カスリーン台風の碑」や「利根川治水の碑」があります。(地理院地図) |